地球温暖化の原因のうち大きなものは二酸化炭素(CO2)ですが、全世界の排出量の実に30.3%をアメリカ一国で占めています。従ってアメリカが率先して削減に動かなければどうにもならないのに、現実にはアメリカは京都議定書を離脱してしまい、世界先進国の動きに背を向けた格好のままです。
これは温暖化ガスの削減という儲けにつながらない設備投資を嫌う産業界と、エネルギーの大量消費による快適な生活の規制を国民に強いることへの反発を恐れる政府の思惑が、一致した結果でしょう。しかし私にはこうした動きが、1970年代の排気ガス規制を巡るアメリカの自動車産業と、米国政府の動きに重なって見えて仕方がありません。
60年代の後半には、自動車排気ガスによる大気汚染は、特に都市部では無視できないレベルに達していました。そこで70年12月、アメリカの上院議員、エドモンド・マスキーは、後に彼の名にちなんでマスキー法と呼ばれることになる自動車の排気ガス規制法案を提案します。
その内容は、『一酸化炭素(CO)、炭化水素(HC)については、75年型から現在の70−71年型に比較して10分の1以下に、窒素酸化物(NOX)については76年型から同じく10分の1以下にする。これを達成しない自動車は、期限以降の販売を認めない』という、まことに過激なものでした。
当時全盛だったビッグ3(GM、フォード、クライスラー)は、これに対して「技術的にできるわけがない」、「たとえできても、クルマの値段は倍以上になるだろう。そんなクルマを一体誰が買うのか」と猛反発をします。ヨーロッパや日本のメーカーも、目標の高さに驚きながらも、「アメリカでは、挑戦的な目標を議会や政府が打ち出すのはよくあることで、それから産業界とすり合わせを行って、妥当な数値に収めることが多い。これから米国政府と自動車業界との折衝の中で、どの辺が落としどころになるのか、推移を見守りたい」として、静観を決め込むところがほとんどでした。
しかしこの時、世界の自動車業界でただ一人、「これこそ神が与えてくれたビジネス・チャンスだ」と叫んで立ち上がった男がいました。それは、ホンダ(正式な企業名は本田技研工業ですが、この記事では正式な略称であるホンダで通します)の創業者である本田宗一郎氏です。ちなみに当時のホンダはオートバイの世界でこそトップメーカーでしたが、四輪の世界には7年前に参入したばかりの最後発の弱小メーカーでした。彼はマスキー方の内容を知ると、すぐに技術者達を集めてこう宣言しました。
「クルマはヨーロッパで生まれて、アメリカで発展してきた。従ってクルマに関するすべての技術は欧米が発祥で、日本は残念ながら彼らの物真似をしてクルマを作ってきたというのが、正直なところだ。
ホンダがS600(63年に発売した排気量600CCのスポーツカー)を発表して4綸の世界に参入してから7年になるが、どうやったら世界に伍して戦っていけるのか、これまでは暗中模索を続けてきた。
しかし思いもかけないところから、絶好のチャンスが巡ってきた。今度の排気ガス規制は突然降って湧いた技術課題で、世界のどこにも先行しているメーカーがない。つまり、世界中のメーカーが横一線に並んで、これから「よーい、ドン」のスタートを切るのだ。低公害エンジンの開発でホンダが先陣を切れば、その瞬間にホンダはこの分野での世界一のメーカーになれるのだぞ。そうなれば、それを切り口に胸を張って世界に進出していける。
これこそ、神が与えてくれたビッグ・チャンスでなくてなんだ。みんな、世界一を目指して頑張ろうじゃないか!」
もともと本田宗一郎氏の口癖は、「他人(ひと)にできることは、他人にやらせろ。ホンダは他人にできないことをやるんだ」でした。そうした氏の薫陶を受けて育った技術者達は、オヤジ(彼らは本田氏を親愛の気持をこめてこう呼んでいました)の宣言を受けて奮い立ちます。こうしてホンダはその日から、低公害エンジンの開発に全社を挙げて取り組んでいくことになりました。
排気ガス対策には、二つのアプローチがあります。一つは、エンジン内での燃料の燃焼方法に工夫を凝らして有害ガスの発生を抑えるもので、これを前処理と呼びます。もう一つはマフラーの中に触媒を設けて、排気ガスが触媒に触れることで有害ガスを完全燃焼させるもので、これを後処理と呼びます。
前処理だけでマスキー法に対応できればもちろんそれが一番いいのですが、生憎なことに一酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物の間には、こちらを減らせばあちらが増えるというトレード・オフの関係があります。従って前処理に最善の努力をするのは当然としても、抑え切れない有害ガスについては、後処理を併用するのが現実的だと考えられていました。しかし当時最も性能のよい触媒はプラチナを用いたもので、プラチナはきわめて高価な貴金属ですからコストが高く、しかも耐久性に乏しくてすぐに性能が劣化してしまうという欠点がありました。つまり、前処理にも後処理にも大きな問題を抱えているのが、排気ガス対策の実現性が疑問視される理由となっていたのです。
しかしホンダは、早い時期から前処理一本で行くことに方針を定めます。そして燃焼室に副燃焼室を設けるリーンバーン(希薄燃焼)方式の開発に成功し、73年にはこれをCVCCエンジンとして実用化しました。そして早くもその年の12月には、このCVCCエンジンを搭載したシビックの発売に踏み切ります。
このことは、世界の自動車メーカーに衝撃を与えました。というのは、実験室で規制値をクリヤーするのと、市販エンジンとして大量生産するのでは、レベルが違う話だからです。実験室では最良の条件を整えた上で、ぎりぎりで規制値を下回ればそれで成功なのですが、大量生産するとなると、品質のばらつきを考慮しなければなりません。マスキー法の規制とは、生産エンジンの平均値で達成すればよいのではなく、規制値を上回ったエンジンは1機も販売することができないのです。
品質のばらつきの上限でも規制値をクリヤーさせるためには、全生産エンジンの平均値が規制値の半分以下でなければならないというのが、技術者の常識です。つまりホンダのCVCCエンジンは、マスキー法の規制値の半分以下の有害ガスしか出さないという、驚異的な性能を持っていることになるのです。
シビックの発売と前後して、ホンダはCVCCエンジンをアメリカに送り、議会で公開してみせます。
マスキー法の規制には技術的に対応可能である、国民の健康を考えるのであれば、一日も早いマスキー法の実施が望ましいという、強烈なアピールをしたわけです。
ビッグ3の首脳達も内心では当惑したに違いありませんが、公式のコメントは、「あんな小手先の技術では、日本の小さなエンジンには対応できても、アメリカ車のような大型のエンジンには対応できる筈がない」というものでした。これに対して、ホンダはその数ヵ月後に、アメリカ車に積まれているような大排気量のCVCCエンジンをアメリカで公開し、CVCCエンジンならば排気量に関係なくマスキー法をクリヤーできることを実証してみせます。
これに対してビッグ3がとった対応策は、信じられないものでした。彼らは豊富な資金量に物を言わせて強引なロビイスト活動を行い、75年にはマスキー法そのものを廃案に追いやってしまったのです。
ダチョウは敵に出会うと、穴に頭を突っ込んで難を逃れようとするそうです。自分に相手が見えなければ、相手にも自分が見えないだろうという浅はかな思い込みなのだといいます。
ビッグ3の対応も、このダチョウと同じことではないでしょうか。マスキー法を廃案にすることで当面の危機は回避できても、マスキー法の背景にあるクルマの排気ガスによる健康被害は年を追って増大していき、いずれは今よりもはるかに大きな付けが回ってくるのは確実なのですから。
この点、日本の反応は違いました。国内のメーカーであるホンダがマスキー法対応済みである以上、他のメーカーはやらなくてもいいとは政府もとても言えません。また日本でも東京・大原交差点に代表される排気ガスによる大気汚染が深刻化してきていて、世間では「自社技術で対応できないメーカーは、ホンダからエンジンを買えばよい」という声が日に日に強くなる状況でした。
こうした世論に押されて、政府は他のメーカーにもホンダと同じ開発期間を与えるために、78年からの排気ガス規制(マスキー法と同じ内容)を実施することを決定します。トヨタや日産のようにエンジンの種類が多い大メーカーは、開発工数が膨大になるとして難色を示しましたが、これもやがて世論には逆らえなくなり、全メーカーはこぞって排気ガス対策に全力投球をすることに踏み切りました。
エンジンはその会社の技術力を象徴するものですから、自社開発できなければホンダから買えばいいなどとは、大会社の面子に掛けても口が裂けても言えません。こうして各社の血の滲むような開発競争が始まりました。私も当時は自動車会社に在籍していましたが、低公害エンジンの開発に成功した時には社内に緊急放送が流れて、みんなで立って拍手をしたのをよく覚えています。
そして78年の排気ガス規制の施行当日には、全メーカーとも独自技術による様々な方式による低公害エンジンの発売に漕ぎ着けました。もっともこの時は開発期間があまりにも短かったために、排気ガス対策に絞って技術開発を進めた結果、会社によっては燃費が悪化したり、出力が低下して走行性能が落ちる等の問題がありましたが、それも2、3年のうちには改善されて、排気ガス規制以前と比べても遜色のないレベルにまで回復できました。
また、この開発の途中で思わぬ副産物も生まれました。当時のガソリンは有鉛ガソリンと呼ばれるもので、エンジン内部の減磨耗剤として鉛が添加されていたのです。ところがこの鉛が触媒の耐久性に大きな悪影響を及ぼすことが分かってきました。そこで各メーカーおよび部品メーカーは、鉛がなくても耐久性が劣らない素材の開発に取り組み、これに成功します。こうして日本は、世界に先駆けて無鉛ガソリンの採用に踏み切ることができました。
鉛はもちろん人体に有毒な金属ですから、ガソリンの無鉛化は、触媒の実用化に目途をつけたばかりではなく、人間の健康という面でも大きな貢献をしたことになります。
規制実施前後の数年間に膨大な人的資源を投入して開発に取り組んだ結果、日本は排気ガス対策技術については世界のトップに躍り出ます。またこの時期に燃料の燃焼についての研究を基礎からしっかりと積み上げたことが、80年代のエンジンの電子制御化とあいまって、空燃比(燃焼室内における燃料と空気の比率)や点火タイミングをエンジンの負荷に応じて自動的に最適な条件に設定できることにつながり、エンジンの高出力、低燃費に拍車がかります。70年頃に比べると、衝突安全対策などによってクルマの重量はかなり増加していますが、燃費はむしろよくなっているのはそのためです。
ちなみに、アメリカでマスキー法レベルの排気ガス規制が実施されたのは1995年からです。マスキー法の提案から25年後、日本の規制実施から17年後のことでした。
70年代には、クルマの量産技術、品質管理では既に日本は世界のトップにいました。それに加えて排気ガス技術、エンジン技術といったいくつもの柱が確立したことで、90年以降は日本の各メーカーは世界に向かって飛躍していきます。
70年当時は、アメリカ市場はビッグ3の金城湯池で、日本のメーカーはそのおこぼれにあずかっているだけの存在でした。それがこの2007年上期の実績では、ビッグ3の販売シェアは50.2%にまで落ち込み、下期には50%を割るのは確実といわれています。
日米の差は、営業収益で見るとさらにはっきりします。2006年度のトヨタの営業利益は2兆円、ホンダは8,500億円、日産は7,700億円なのに対して、GM、フォードは毎年莫大な赤字続きで大規模なリストラに追い込まれており、クライスラーは一時はベンツと合併しましたが、慢性的な赤字にベンツも嫌気が差して投資会社のサーベラスに売却しててしまい、サーベラスは新たな買い手を捜していますが、どこも手を出すところがないといった悲惨な状況です。
本田宗一郎氏がいみじくも予言したように、『排気ガスを制するものは、世界を制する』ことになったのです。
それにしても、個人、それも民間の一企業の社長の決断がこれ程までに劇的に世界全体を動かしたかと思うと、呆然たる思いがします。もしあの時本田氏が、「排気ガス規制こそは、神が与えてくれたビジネス・チャンスだ」と叫んで立ち上がらなければ、世界の排気ガス規制は確実に十年は遅れていたでしょう。そして現在のような日本の自動車業界の躍進も、おそらくはなかったに違いありません。
あの時、ビッグ3は排気ガス規制に背を向け、議会を動かしてマスキー法を廃案に追い込みました。その結果が、現在の惨状になって現われています。
そして今、アメリカの産業界は議会を動かして京都議定書からの離脱に踏み切りました。巨大ハリケーンの襲来、巨大竜巻の発生など、いくつもの危険な兆候が既に現れているというのにです。
その結果は、20年後、30年後には明らかになるでしょうが、私にはもう今からはっきりと見えているとしか思えません。困難な課題に真正面から立ち向かった者は栄光を手に入れますが、困難に背を向けた者には明日は無いのです。
地球温暖化は、確かに深刻な問題です。しかし私は、今回も誰かが、「地球温暖化こそは、神が与えてくれた最大のビジネス・チャンスだ!」と叫んで立ち上がることを信じています。そしてそれが日本人であることを、切に祈ってやみません。